夜の角に建つ煉瓦の洋館。アーチの窓に灯りがともり、まわりをガラスの高い建物が囲んでいる。銀座に残る戦前の建物をイメージした生成ビジュアル(実際の現地写真ではありません)
銀座で建物を見るなら、午後の低い光の日がいい。壁面の凹凸と曲面の影が出る。表通りから一本入ると、明治10年に完成した煉瓦街の地割り、昭和初期のアパート建築、震災復興事業で建った小学校が、意匠のまま残っている。歩ける時間は午後の3時間ほど、範囲は銀座1丁目から8丁目までに限った。
銀座1丁目、創建は昭和7年頃。手で開ける昇降機が残る、もとアパート建築
奥野ビルは銀座1丁目にあり、創建年は昭和7年頃とされる。中央区の近代建築物調査では、もとはアパート建築で、いまはアトリエやギャラリーに活用されていること、外観をはじめエレベーターや階段室などにアパート建築の特徴がよく残されていることが記録されている。
エレベーターは、扉を手で開ける仕組みが生きている。外扉を引き、内側の蛇腹を畳んでから箱に乗る形だ。金具は指でつまむと冷たく、畳むときに小さく鳴る。動き出すと、蛇腹の隙間から階の切れ目が流れていく。
上階の廊下には扉が並び、一枚ずつ意匠が違う。木の縦框に真鍮の把手、その隣は磨りガラスの嵌まった扉。把手の高さも握りの太さも揃っていない。もと住戸だった区画に小さな画廊や店が入り、使う人が変わるたびに扉が替えられた履歴が、廊下にそのまま並ぶ。床は中央だけ色が薄い。

建物の中の廊下に扉が並ぶ。木の框、磨りガラス、把手の高さが一枚ずつ違う。床は中央だけ色が薄い。古い建物の廊下をイメージした生成ビジュアル
歌舞伎座は明治22年開場の五代目。裏へ回ると、通りの寸法が変わる
歌舞伎座は明治22年11月21日に開場した。第二期は大正10年10月に漏電で、第三期は昭和20年5月に空襲で焼けている。現在の建物は第五期で、平成25年4月開場、三菱地所設計と隈研吾建築都市設計事務所の共同設計にあたる。
4度建て替わって、同じ場所に残っている。表からは第五期の正面だけが見えるが、裏手へ回ると通りの寸法が変わる。路地に面した喫茶が並び、窓の外は向かいの壁まで数歩で届く距離になる。日は上のほうにしか当たらない。
店内では造作が読める。壁の羽目板、天井の廻り縁、椅子の座面の張り替え跡。手を入れた場所と入れていない場所の差がはっきりしている。卵料理は器の縁までふくらんで揺れ、匙を入れると湯気が羽目板のほうへ流れた。

器の縁まで膨らんだ焼き物に匙を入れたところ。湯気が上がり、奥に水のグラスと木の羽目板の壁。路地の喫茶の一皿をイメージした生成ビジュアル
明治5年の大火で34街が焼け、明治10年に煉瓦街が完成した。小路はその規定の外に残る
銀座は明治5年に焼けている。焼失町数34街、焼失戸数2,926戸。そのあと煉瓦街として作り直され、明治10年(1877年)に完成した。道路に3つの等級が設定され、等級に合わせて道路に接する建物の高さも規定され、車道と歩道が分離された。ガス灯と街路樹が整えられ、建物の2階前面にはバルコニーと歩廊が付いた。
つまり銀座の表通りの広さは、火事のあとに等級として決められた寸法だ。そして表通りを一本入ると、その等級の外側にあった細い抜け道が残っている。三原小路は石畳で、両側に小料理屋が並ぶ。昼は看板の灯が入っていない。灯が消えているあいだは、建物の縦の線がよく見える。
途中、ビルとビルのあいだの人ひとり分の隙間に、社が納まっている。幟の布が風のたびに壁をこすり、乾いた音を立てた。建物は入れ替わっても、路地の位置と社の位置は動いていない。石は角が丸く、面が少しずつ傾いて、歩幅が自然に短くなる。

黄に色づいた並木の続く広い通り。歩道で立ち話をする人、ベンチに座る人がいて、車道の向こうまで木が並ぶ。並木の続く広い通りをイメージした生成ビジュアル
昭和4年の泰明小学校は、震災復興事業で建った。壁が曲面で、窓がアーチ
泰明小学校の校舎は昭和4年(1929年)竣工、設計は東京市土木局建築課、RC造3階(地下1階)で、震災復興事業の一つとして建てられた小学校にあたる。平成11年度に東京都選定歴史的建造物に選ばれている。カーブを描く壁面やアーチ窓等、全体的に表現派風の意匠をもつ建物と記録されている。
歩道から見上げると、壁が平面ではなく、角にあたる部分が丸く回り込んでいる。窓は上端が半円を描く。燃えない校舎として鉄筋コンクリートで組まれた建物に、実用だけなら要らない丸みと半円が入っている。
曲面は影の出方が平面と違う。午後の光が角を回り込むと、陰の縁が線にならず、帯のように広がって壁に残る。歩道を端から端まで移ると、帯の位置がゆっくり動く。現役の小学校なので、見るのは歩道からになる。
1911年12月12日開業の珈琲店は、移民事業の販路として始まっている
銀座8丁目の長崎センタービル1階に、銀座カフェーパウリスタがある。合資会社の設立は1910年、銀座カフェーパウリスタの開業は1911年12月12日。創業者の水野龍は1908年に初の移民団長としてブラジルへ渡り、1910年にサンパウロ州政府からサントス珈琲豆の継続的供与と、東洋における一手宣伝販売権を受けた。ブラジル政府による年間1,000俵のコーヒー豆の無償提供は、1923年に期限切れとなった。
銀座に古い珈琲店があるのは、嗜好の流行が先にあったからではない。移民事業と州政府の販売権が、この街の一区画に店の形で落ちている。階段の板は中央がすり減って、踏むとわずかに沈む。
この日に残った形は四つ。手で開ける昇降機、羽目板、石畳、曲面の壁。どれも、作った人の判断が形に残っている。均さない、揃えない、隠さない。
この街の歩き方
| 奥野ビル(銀座1丁目) | 創建 昭和7年頃・もとアパート建築、現在はアトリエ・ギャラリー |
|---|---|
| 歌舞伎座 | 明治22年11月開場/現在の建物は第五期・平成25年4月開場 |
| 三原小路(石畳の抜け道) | 銀座の煉瓦街は明治10年(1877年)完成 |
| 泰明小学校(外観のみ) | 昭和4年竣工・RC造3階/平成11年度 東京都選定歴史的建造物 |
| 銀座カフェーパウリスタ(銀座8-9 長崎センタービル1階) | 開業 1911年12月12日 |
曲面と凹凸に影が出るのは午後なので、泰明小学校は後半に置く。奥野ビルの廊下と昇降機は窓が少なく時刻に左右されないから先に片づけ、三原小路は看板の灯が入る前の昼のうちに通ると、建物の縦の線が見える。
